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芭蕉の有名な俳句、古池やについてのエピソード。

山根 智行さんの日記

芭蕉の有名な俳句、古池やについてのエピソード。

古池や蛙飛びこむ水の音

有名なこの句ができた前後のお話があります。

この句ができた前後の風景を少し描写しておきます。

この頃、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵に住んでいました。

この芭蕉庵からは、上野の寛永寺や浅草が見えたと言われます。

いずれにしろ、草深い閑静な所だったようです。

いかにも、芭蕉らしいといえば、まさにそのとおりであったでしょう。

 さて、ここにある日、芭蕉の禅の師匠である仏頂和尚が訪ねて来ました。

その時、和尚の供の者(六祖五平)が、こう言ったと言われます。

 

    「 如何なるか是れ閑庭草木中の仏法 」

 (この閑静な中での仏法は、如何なるものか)と尋ねました。

禅問答であり、また挨拶のようなものでもあります。

 

    「 葉葉大底は大、小底は小 」

(大きい葉をもっているものは大きいし、小さいものは小さい。)と、

芭蕉は答えました。

    

      「 近日何の所にか有る 」

仏頂和尚が、今度は直々に芭蕉に心境を尋ねました。

むろん、これも禅的な心境のことです。

 

     「 雨過ぎて青苔を洗う 」

(雨がさっと降って、青い苔が鮮やかである)と、芭蕉は答えました。

      

    (ここからが大事な所です)

 

   「 如何なるか青苔未生前(みしょうぜん)春雨未来前の仏法 」

間髪を入れず、仏頂和尚が鋭く切り返しました。

この問いかけは、禅的には極めて重要です。

(では、その青い苔がまだ生じない以前、

春雨がまだ降っていない前の仏法とは、どのようなものであるか。)

 

「 蛙飛び込む水の音 」

 芭蕉は、ふと蛙が水に入るのを見て、こう答えました。

これはもう、ごちゃごちゃと説明を加えるよりも、

芭蕉の言ったこの言葉の方がすっきりとしています。

“如何なるか、これ仏法”と問われ、手元にあった

麻(あさ)三斤ほどをつかみ、“麻三斤”と答えたのと同じです。

“水の音”も“麻三斤”も、それは部分ではなく、

絶対主体性の中での全体なのです。

このあたりは、禅的な“悟り”の中の風景です。

 

「 珍重珍重 」

仏頂和尚は芭蕉の答えに満足し、こう言って芭蕉を許しました。

“古池や”の前句は、この後で付けたと言われます。

    

いずれにしても、ここで芭蕉の俳句を研究しようと言うのではありません。

それは専門家にお任せします。

私がここで述べているのは、“水の音”が生まれていったプロセスです。

その、“永遠の水の音”とは、どの様な音だったのでしょうか。

また、絶対主体性の中で聞いた、この伝説的な“水の音”を、

どのように表現したら良いのでしょうか。

 

池あらば飛んで芭蕉にきかせたい

 

古池や芭蕉飛びこむ水の音

    

      上記の二句は、仙崖和尚の句です。

閑(しずか)さや岩にしみ入(い)る蝉(せみ)の声

についての秘密

松尾芭蕉山形県立石寺で詠んだこの句は、

『おくのほそ道』の中で大きな意義を持っているとも言われています。

蝉が鳴いているのであれば、閑かというよりは五月蝿いのでは?

岩にしみるくらいならば

尚更だろ?

というふうにも、とらえれますが。...

やかましいにもかかわらず芭蕉が前句を「閑さや」にしたのは、

この「閑さ」が蝉の鳴き聲が響いている現実の世界とは

別の次元の「閑さ」ということです

奥の細道の本文にも「佳景寂寞として

(あたりひっそりとしずまりかえっていて)心すみ行のみおぼゆ」

とあるように

「閑さ」は心の中にあるとものであるといった事がかいてあります

芭蕉は山寺の山上に立ち、そこで蝉の声を聞いているうちに

宇宙のしずかさとも言えるべき「閑さ」を感じとった。

句であり

「閑さや」の句は奥の細道という

この宇宙めぐりの旅の中心的な句でもあるのです。